• 感性を育てる

    2019/04/01
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  • 頭で食べる

    先日、テレビで料理家の枝元なほみさんが、「頭で食べている」と言っているのを見て、なるほどと感心して、後々自分でもよく考えてみた。
    高い・安い、有名だからなど、おっしゃっていたとおり、私たちの周りには食に関する情報が多く存在する。
    普段自分の買い物でも[高い・安い・お得]を始め、[健康にいい・無添加]、[太る・栄養が足りない]など、追加の情報で購入するかや、何を食べるかを決めていることが多い。確かに野菜を買おうにも[高いなぁ…]と断念することもあり、買うことはできても消費するお金のことを優先して、食を諦めることは本当に多いと思う。

    宅配野菜を始めたのもそんなことから

    枝元さんのテレビを見る前、これまた別のテレビ(この時点で情報に左右されている)でちょうど宅配野菜の社長の番組を見ていて、確かに美味しく、愛情のある野菜などを購入したほうがいいなぁとなんとなく考え始めた。
    それから数日、スーパーで[やっぱり野菜は高いなぁ…]や、傷んでいる野菜や鮮度の落ちたお得な野菜を見ていて、切ない反面ちょっと腑に落ちないストレスを感じていた。
    また、夕飯の献立を考える際、選ぶ野菜が偏ってくることと、果物が高いために旬を感じるにも、値段で食欲が抑制されているように感じ、これは良くないと宅配野菜を始める決心がついた。

    本能と理性

    宅配野菜はありがたく、嬉しく、楽しく、美味しいので、結果よかったと感じた。
    同時にスーパーへ行くことも少なく、かえって献立も考えやすくなった。
    また、いろんな食材を手にすることで、いろいろ学ぶことが多くなった。
    このことがあってから、さらに考えていくと、情報が多いからこそ本能に向き合うことが少なくなったんだなぁとも感じるようになった。
    本能で動くと[太る]とか、そういうこともなくはないにせよ、[太る]のは本来自分の体に必要かどうかの判断が鈍くなったのではないかと、違う視点で考えてみたりもした。それがストレスであったり、別の欲求、例えば愛されたいとか目立ちたいとかの承認・所属欲求とか。そちらへ意識が向く、つまり理性が働くと体に必要な本能的な感覚が鈍くなるのではないだろうか。
    ※スーパーで売られている野菜などが良くないということではないです。足りないものなどは今でも買ってますしね。

    情報化社会の代償

    何かとすぐに調べることができるので、もちろん自分でも活用しているものの、こんな変な(?)考えが頭に浮かんでからは、もうちょっと自分の感覚で判断してみようと意識するようになった。原始的な生活であるけれど、これぞ本来の[人間らしさ]かなとちょっと楽しかったりする。
    例えば野菜の皮を剥くのに、剥き方を調べればすぐだけど、[どう剥くと上手くいくのか]を想像したり、実践したりで、結果的に調べたものと同じだとしても経験としては貴重なんじゃないかと思う。なにせ、野菜の種類が増えた分、覚えていられないという…。なので、自分が経験して培っていったほうが、確実に言語的な記憶ではなく、エピソード記憶として蓄積されることで人間的にレベルがあがるかなーと思っております。
    調べてすぐ分かった気になる、消費的満足が自分で考えを巡らす力を弱くさせているのが、イマドキかもしれない。

     

    こういう考えは、個人にとどめておかないと、ちょっと変な宗教的考え、つまり哲学エリアであるために、自身で実践するしかないなとも感じた。
    感性が小さい頃から豊かな人というのも、言語的体験[怒られる][教育される]親や指導者からの言語的教育よりも、自身で体験したものごとが豊かということなんじゃなかろうか。今更だけど、自分でも増やしてみよー。

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