• 病名をつけたい依存

    2019/11/10
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  • 病名がつく安心感

    溜めていたネタを。

    タイトルとしては不謹慎かもしれないが、医療者側も患者さん側も少しある、病名がついた安心感。病気が見つかることは、決していいことではないが、分からない状態というのも辛いことがある。

     

    医療者側の視点では、原因が何かわからない間、患者さんに不安を与えてしまうし、すべき治療や対策が見つからないため、分かるまでは検査や評価を続けるしかない。しかし、そんなに検査や評価ばかりでは、患者さんからは不信を持たれてしまう。

     

    その究極の仕事が医師と思われる。確定するまで、可能性に対して治療をしつつ、その後の経過で追加の検査や新たな可能性を探らなくてはならない。

    リハビリでもたまに、診断がすでにされた方や、検査中の方もおり、リハビリの治療も探り探り、むしろそれが通常のことが多い。特に、リハビリ治療は方法は様々のため、患者さん一人一人に合わせて、何が適切かを探るには、治療と評価が必ず繰り返される。

     

    一方、患者さん側の視点では、自分に起きた何かが分からない状態は不安でしかない。とりあえず処方された薬などを使用して改善すれば嬉しいし、そうでなければさらに不安になってしまう。なので、可能性でも診断が下った方が、安心できることもある。

    視点の変化

    病名をつけることで視点が変わる良いこともあるかもしれない。生活習慣病であれば、生活スタイルを見直すきっかけに。また、先日テレビでもあった、アスペルガー症候群の人は、自分が人とは何か違うけれど、何かが分からない、そんな時に診断されて「分かって安心した」と言っていた。

    やはり、分からない、ということはストレスになるし、不安になる。分かった瞬間のすっきりさというのは、健康面においてもあると思う。

     

    分かることで、自分にはそのような変化が起きている、人とは違う部分があることを認識することで、今まで悩んでいたこととは反対に、向く方向が分かるようになるかもしれない。

    ノーマライゼーション

    話が飛躍しているが、さらには、病名がつかなくても、対応ができるような世の中になったら、それはすごいことだな、と当時思った。

    確か養老孟司先生の、”解剖学教室へようこそ”の中で、『名前をつけるということは、境界線をひくということ』といった内容があったと思うが、病名をつけることで、何かが違うという境界線をつけるということ。

    理想とされる、ノーマライゼーションであれば、そのような境界線がなくなっていくことと思われる。それは、最近で言えばLGBTのことも同じと思われる。身体だけではなく思考においても必要なことと思われる。

     

    最終的には、人はそれぞれ違うという意味で認識される。それは今も教わることだけど、規模だったりはまだまだ小さいように感じる。先月の留学先でも、「恋人いるの?私には彼女がいるんだ」と普通に女性から言われた時、「あ、そうなんだ」と普通に返せた自分がいた時に、そういえば気にしなくなったな、と気づいた。

     

    色々なところでデモや運動が続いているうちは、まだまだ認識されていない状態であるということ。特に法整備などは進みにくく、選挙でも最近障害者の方が当選したくらい。

    人間が存在できうる間に、本当のノーマライゼーションとなる日が来るのだろうか。

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